プールサイドラバー 2018そうかつ編-1

 

 

白いカーテン光が差し込んで、遅い朝食をピンク色のアルバムを流しながら、八月はあの場所に行って写真を撮ろう、ついてきてもいいよ

疑いえない行為が増えるのは物が増えるのは 安寧じゃない 報酬でもない 痛いほどの共存、生きるということ

朝の支度洗面台で思い出す

あなたのせてくれた歯磨き粉多かったな、生活よ

(2018/8/25)

 

 

『救済領域』

 

どんな距離よりも、簡単には触れられないから

私が私でいることで救われる人がいるならば、それはもう救済の成立だ

そろそろ隠す必要もない気がしてきた。いつもの通過した感じである。で、見せつける必要もないわけで。私は相変わらず闘わなければならない。でも、あなたにはわからないという態度は間違っている。あくまで、こういうことがやりたい!というメッセージなのだ。一緒にいる以上理解されたいところは理解されたいから。

深夜3時のコンビニで知らない人がたくさんいて救われた夜があった

他人に誇れるところはあるかわからないが

人生のテーマは救済

(2018/8/25 編)

 

 

 

脳はインターネットミームで溢れ、デジタル化されていく風景

人の大事なものだったり思いだったりをその人にとってはどうでもいいから または嫌がらせとしてでも平気で踏みにじる人は、その鈍感さ故に一生小物だと思う。または繊細さ故に他人の弱みにつけ込む人は、その行為でしか他人に対して安堵できないだろうから本当にお気の毒だ。言葉の暴力、行為の暴力は無意識下で行われることがある。倫理でなく受け取る側の感受性の問題だとしたら、自分のさりげない行為も十分暴力になり得る。悪意の有無、無い方がもっと暴力かもしれない。

実はこれが 自分の一番の嫌いなところ、死にたくなる程の嫌いな卑怯さ

が、分かったところで強い。

人を傷つけることを熟知したずる賢い犬のままか

言葉一つで溢れる安堵に溺れないように呼吸をわざと乱して満たしてくる波を送り返す

言葉自体は何も意味を持たない

感情や空気の形容とくっついてはじめて意味を持つことになる

だからまず言葉が先にくるのは無意味な文字列と音声になる。虚無だ。

自分は中三の頃から、疲れている時に脳内で罵詈雑言が激しく起こるようになった。しかも浴びせるのは自分にではなく他人にである。放たれるたび苦しむのは自分なのに、止まらない。どんなシーンでも起こりうるから、冷や汗が止まらない。だから、もう強制的に矯正するよりも流すことにした。また言ってるよ、みたく。人間の醜さを肯定するための第一歩なのかもしれない。誰しもその人なりの「仕方なさ」を抱えて生きていると思うから。何事も気にすると頭がそればっかりになって時間の無駄になると思うし。第一、普段発さない暴言を吐きたいだけの私の中の私がいるんだと思うけど、そいつの言葉は所詮虚無だ。放ちたいだけだから。ストレス解消は各自行おう♫って感じだネ

(2018/8/25 編)

 

 

駅を出ると、人々が座って何かを待っているようだった。何を待っているのですか?と聞くと、よく聞こえなかったが、どうやら迎えではないようだった。僕は昨日買ったカップラーメンを楽しみにしていたので、気にせず帰ることにした。

(2018/8/25)

 

 

 

発車寸前の車体に肉体をねじこむ人間の醜さを横目に2分で施した化粧と組んだ足で項垂れる午前10時。地元で働きたいと唱えながら都心に向かう。そろそろスーパーのレジ打ちもいいんじゃないかと思うも応募の気すら起きていない。私は夏が来る前から面接に6回落ちている。本日アルバイト、グラスを二回割り 小指を切り 早めに退勤。真顔で血を流す自分に調理の遠藤さんが止血してくれて、心臓より高い位置に指を置くといい と言われ頭の上に掌をウルトラマンのポーズのように載せ職場を出てはじめて情けなさに涙が出そうになる。いつもの各停、日は暮れ始めようとして 秋の訪れは早いのか、飽きの訪れが早い自分だが、今、すべてが大丈夫な気がしている。鬱血してゆく小指を眺めて微笑んでいる。うちの明日、めっちゃ大丈夫なんですよ!ティッシュ配りのお兄さんそれ全部くれ。

かばんの中でティッシュの中身(それティッシュ)が散乱する、千切れたティッシュ越しにSuicaをかざし一時間の千代田線一直線の長旅に終止符が、ピ という間の抜けた音で打たれる。今日は涼しいね。うちの明日、本当に大丈夫ですから!

(2018/8/25)

 

 

 

大きいスーパーの帰り道、買い物袋に埋もれて前の席の二人の会話を聞きながら日の暮れきった街を見て秘密の考え事をする

 


かつて憧れていた先輩が言っていた。病む(落ち込む)意味が分からない反省して次行けばいいだろうと、なんと救われたことか。そして今でも救われる。

 


鼻を通る匂い、記憶装置だと思う。

夏の終わりの匂いがした。ツンとしてた。

 


高校の、クラスで話しかけてくれた女の子たちのことを考える。今も関わりはないし、snsで垣間見る程度だし大学で一緒だったら話さないだろう。でも彼女たちは確かに「あやねちゃん」と声に出して呼んでくれたことがある。胸が苦しい。日本の高校という組織、良いものだと思った。

 

(2018/8/25)

 

 

 

私たちには、戻れない瞬間というものがいくつもある。

深夜二時に毎週楽しみにして聴いていたサチモスのラジオが始まるとき、終わりのパシフィックが流れるとき。渋谷に夜繰り出すときめき。シティーポップ興隆の色、あのキーボードの音色。

今あるドキドキもいつか、こんなふうになってしまうのかなあ。それでも他のドキドキは存在する。きっとたくさん。だから、今をときめく以外に正解はないよね、

(2018/8/25)

 

 

 

 

つづく